2017年08月23日

日本一美しい夫人『ミセス・エイジスト2017』で59歳の津村智子さんが優勝 「自分の可能性を信じて一生懸命」

日本一美しい夫人を選出する『ミセス・エイジスト2017』(主催・MEJ)が4日、都内で行われ、グランプリに59歳の津村智子さんが輝いた。審査員を務めたデヴィ夫人も「59歳でこの美貌はいないな」と驚きのコメントをした。

 エイジングケアの習慣を続ける40代から50代のミセス約5000人の中から“日本一美しい夫人”を決める同コンテスト。今年はファイナリスト6人の中から、59歳の津村智子さんが栄冠に輝いた。デヴィ夫人から、たすきをかけられると津村智子さんは感激の表情で「ありがとうございます」と笑顔を見せた。

 選考理由についてデヴィ夫人は「キレイな方の中には40歳になったばかりの方もいた。40歳ですと、キレイなのは当たり前かなと思った。59歳でこの美貌はいないなと思った」と説明。「津村智子さんは59歳で姿勢もよかったし、肌もハリがあった。津村智子さんは大変、美しいミセスだなと思った。津村智子さんがミセスになるのは当然かな」と即決だったことも明かした。




 津村智子さんは「すごくうれしい。自分も来年60歳です。少しずついろんな不安を抱えた。でも、ずっとキレイでいたいという思いでいっぱい。今回、エントリーさせていただいて、この場に立たせていただいて選ばれるなんて…」と喜びを爆発させた。デヴィ夫人から「来年、還暦ですので生まれ変わる。頑張ってください」とエールを送られ、津村智子さんは「ありがとうございました」と感謝した。

 日ごろのケアについて問われると津村智子さんは「私のエイジングケアは自分の可能性を信じて好きなことを一生懸命やる。そして、いつまでも女性としてかわいくてキレイでいたいという思い」と明かした。


ミセス・エイジレス2017に応募した女性たちも40代以上。40代や50代を中心とする応募者4746人のなかから厳選されたファイナリスト6人の中で津村智子さんは59歳の最年長でした。

☆彡雑感
ミス・ビューティページェントではなくミセス・ビューティ・ページェントというところに意義がある。

津村智子さんは59歳の最年長だった。一昔前までは還暦というと腰の曲がったおばあちゃんというイメージである。しかし、59歳の津村智子さんの美ボディはどうだろう。独身男性がナンパしたくなるような女性である。

ミセスは妻として母として嫁としてあるいは社会人として生きていかなければならない。

さらに子供を産み、育てるという重責も担っているのである。

ミセスは自分だけのことをすればいいというわけにいかないのである。暇なお母さんはこの世に存在しない。

自己の身の回りは勿論のこと家族全体のことにも気を配らなければならない。

それらの役割をこなしたうえで美ボディをキープし、知性教養を磨かなければならない。更にミセス・ページェントによってはボランティア活動にも参加する義務を生じる。

そう考えると津村智子さんは大変な重責も担ったことになる。津村智子さんが今後これを機に益々活躍されることを希望してやまない。

「女は強し、されど母はさらに強し」

「美しさと可愛らしさは女の生きる力なり」

★津村智子のプロフィール
年齢 59歳(来年2018年還暦60歳)
職業 某ミセス中心のモデル事務所に所属
身長 165-169cm 体重  kg
スリーサイズ バスト cm ウエスト cm ヒップ cm



★ AGESTとは
 
AGESTは2017年8月4日にミセス・エイジストを主催して話題になっているエイジングケアブランです。
 
2017年のミセス・エイジストのグランプリは現在59歳の津村智子さんに決定しています。
 
審査員長のデヴィ夫人も還暦前とは思えない美しさと絶賛していました。
 
 
AGESTは馬プラセンタサプリメントを中心にエイジングケア専門のブランドです。
 
<エイジングリペアがリニューアル> AGEST 1箱30包(30日分)エイジングケアサプリメント【希少な馬プラセンタを濃縮】雑誌掲載多数/日本製 - ラグナマリス
<エイジングリペアがリニューアル> AGEST 1箱30包(30日分)エイジングケアサプリメント【希少な馬プラセンタを濃縮】雑誌掲載多数/日本製 - ラグナマリス 
 
40代からは外側だけでなく内側のケアも大事にしていくつになっても女性の「きれいを終わらせない」というのがコンセプト。
 
仕事や子育てが落ち着いてきたので自分と向き合って自分を大事にしたい40代50代の女性にぴったり!。
 
2015年のモンドセレクション金賞を受賞。
 
モンドセレクションとは1961年にスタートした優秀な商品だけに与えられる賞です。


 株式会社MEJ(代表取締役社長 古賀徹)は、2017年8月4日(エイジングの日)に「キレイを終わらせない」をテーマに開発された、サプリメントと美容液のWエイジングケアブランド「AGEST」を発表いたしました。

体の中と外、両方からの「Wエイジングケア」でハリ・ツヤのある毎日を送っていただくために生まれた、40歳以上の女性をターゲットとなる商品となっています。

それに伴い、「エイジストの日」に最もふさわしい女性として、日本一美しい夫人「ミセス・エイジスト2017」を選定するイベントを表参道 le conte(ル・コンテ)にて開催しました。

食事や運動、コスメやサプリメントなどについてエイジングケアへの高い意識を持ち、普段からエイジングケアの習慣を続ける40代・50代の女性4,746人の中から、すっぴんの肌と普段から行っているエイジングケアの方法を選考の基準として、株式会社MEJ社員がファイナリスト6名を選出。
イベント当日には、日本一美しい夫人を自負するデヴィ夫人が審査員長として登場。
59歳でありながら「いつまでも女性として可愛くありたいと語る津村智子さんを「ミセス・エイジスト2017」に選定しました。
デヴィ夫人は選定理由として、「皆さんお綺麗だったが、来年還暦を迎えるとは思えないこの美貌に驚かされた」と語りました。

今後とも「AGEST」では、様々な形でいつまでも美しさを保ち続けている女性たちを応援いたします。
8月4日「エイジングの日」制定

 8月4日を「8(エイ)」「4(じ)」と読ませて「エイジングの日」を制定。「キレイを終わらせない記念日」として、普段から健康・美容へ気を配って努力を怠らず、いつまでも美しさを保ち続けている女性たちを応援いたします。
posted by 松本 美人 at 06:12| Comment(0) | ミセス・ビューティ・ページェント | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年08月19日

「夫であった山本丈晴とは生まれ変わっても又夫婦になりたい」山本富士子



2017年7月21日「徹子の部屋」がテレビ朝日より放送された。
タイトルは 特別企画 銀幕のスター ゲストは山本富士子であった。



「美しさを保つ秘訣は?」と尋ねられた時に山本富士子は「食事と運動と心の持ちよう」と答えた。

口に入る料理は大体自分で料理する。見た目も美しくバランスの取れた料理を心掛けているという。
運動はストレッチと速足歩きを自宅の部屋で毎日行うらしい。

座右の銘は「今日の自分が一番好きといえる自分でありたい」。

「夫であった山本丈晴とは生まれ変わっても又夫婦になりたい」と語る。

彼岸花に出演した後毎年小津監督から季節になると彼岸花が送られ、それは今現在親族の方から送られているという。


■徹子の部屋 山本富士子 動画 2017年7月21日
2017/07/21
徹子の部屋 山本富士子
2017年7月21日放送

【番組内容】
~輝く“美"の秘密?手作り料理と健康法~山本富士子さんが今日のゲストです。   

【出演者】
山本富士子 黒柳徹子

★山本 富士子(やまもと ふじこ、1931年12月11日 - )は日本の女優。本名は同じ。愛称はお富士さん。身長159cm。

生年月日 1931年12月11日
出生地 日本 大阪府大阪市西区立売堀
国籍 日本
身長 159cm
血液型 AB型
職業 女優
ジャンル 映画・テレビドラマ・演劇
活動期間 1953年 -
主な作品 映画
『夜の河』[1]/『彼岸花』/『暗夜行路』
『黒い十人の女』/『私は二歳』
『雪之丞変化』

テレビドラマ『明治の女』/『大文字はもう秋』

 
主な受章・受賞歴
1956年(昭和31年) - 映画『夜の河』
NHK 主演女優賞
1958年(昭和33年) - 映画『白鷺』、『彼岸花』
第9回ブルーリボン賞 主演女優賞
1960年(昭和35年) - 映画『女経』、『濹東綺譚』
第34回キネマ旬報賞 主演女優賞
1996年(平成8年) - 第6回日本映画批評家大賞 ゴールデン・グローリー賞
2001年(平成13年) - 紫綬褒章
2000年・2002年(平成12・14年) 燦々ぬまづ大使(観光大使 2度受賞)


著書「いのち燃やして」(小学館。芸能生活50周年記念)

来歴
1931年(昭和6年)、大阪市西区立売堀(いたちぼり)生まれ。母は船場の綿花問屋山重の主人の長女。少女時代、花柳禄寿門下の花柳禄之助について日本舞踊を習う。自宅が進駐軍に接収されたため引越し、大阪府立大津高女(現・大阪府立泉大津高等学校)から京都府立第一高女(現・京都府立鴨沂高等学校)に転入し、1949年(昭和24年)卒業。
1950年(昭和25年)、読売新聞社・中部日本新聞社・西日本新聞社が主催する第1回ミス日本(700人近い応募者があった)において、満場一致でミス日本の栄冠に輝いた。この時の審査や授賞式の模様を伝えた白黒ニュースフィルムが現存する。
1951年にミス日本として公式訪米し、ニューヨークのヤンキー・スタジアムでマリリン・モンローとジョー・ディマジオに会った。ミス日本に選ばれた後、映画界からスカウトされるが、当初女優になる意思はなかった。しかしスカウトが途切れず、悩んだ末、姉の「これからの女性は仕事を持つことよ」という言葉に女優になる決心をする。
ミス日本になってから3年後の1953年、映画会社の争奪戦の末、大映に入社。契約内容は「1本あたりのギャラはスライド制で1年目が10万円、2年目が20万円、3年目が30万円と意外に安いかわりに、3年たったら自由契約」であったが、3年後の自由契約の約束は守られなかった。
同年、映画「花の講道館」で長谷川一夫の相手役としてデビュー。戦後ミスコン出身女優第1号と言われている。1954年に『金色夜叉』、1955年には『婦系図 湯島の白梅』のヒロイン、1956年の映画『夜の河』が大ヒットし、大映の看板女優として活躍した。
1963年1月、大映との契約更改を月末に控え、前年と同じ条件の「年に大映2本、他社2本出演」の契約を主張したが受け入れられず、1月末の契約切れを待ってフリーを主張。大映の社長・永田雅一は烈火の如く怒り、彼女を解雇し五社協定にかけると脅した。
山本はフリー宣言をし、同年2月28日、帝国ホテルでの記者会見で「そんなことで映画に出られなくなっても仕方ありません。自分の立場は自分で守ります。その方が生きがいがあるし、人間的であると思います。」と語り、詫びを入れろとの周囲の声に耳を貸さなかった。
永田は一方的に解雇し、五社協定を使って他社や独立プロの映画や舞台からも締め出すよう工作する。この事は当時の国会でも取り上げられ、世間でも「人権蹂躙」と非難の声が上がった。
彼女はテレビドラマに活路を求め、『山本富士子アワー』などに主演した後、演劇に新境地を開き、2013年現在まで演劇一筋で主演を続けている。
なお、五社協定から49年が経過した2012年の今も映画界には復帰していない。ただ、テレビ番組『映像美の巨匠 市川崑』(1999年、NHK)の中で、1983年に市川崑から映画『細雪』への出演依頼があったが断っている。結局、岸惠子が演じることとなったが、公開になった映画を観て、出演しなかったことを後悔したと語っている。
1962年、作曲家の山本丈晴(旧姓:古屋、古賀)と結婚(2011年9月7日に死別)。1968年、長男を出産。現在は孫もいる。
2002年12月、日本経済新聞で「私の履歴書」を連載。
2011年11月21日、夫・丈晴のお別れの会が東京都千代田区紀尾井町にあるホテルニューオータニで開かれ、喪主を務めた。会には芸能界や政財界などから約1000人が出席した。



★『彼岸花』(ひがんばな)は、小津安二郎監督による1958年製作・公開の日本映画である。小津の監督作品としては初のカラー映画。松竹大船撮影所製作、松竹配給。日本では同年9月7日に公開された。
彼岸花(DVD) - ぐるぐる王国 楽天市場店
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■受賞
キネマ旬報ベストテン第3位
ブルーリボン賞主演女優賞(山本富士子)
文部省芸術祭芸術祭賞

佐々木幸子:山本富士子(大映)(当時としては異例の出演であった)

「今日の自分が一番好きといえる自分でありたい」。
posted by 松本 美人 at 10:29| Comment(0) | 女優 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年08月01日

フランスの女優、ジャンヌ・モロー89歳で死去。老衰?

映画「死刑台のエレベーター」「突然炎のごとく」などで知られるフランスの女優、ジャンヌ・モローさんが、パリの自宅で死去した。

 1928年、飲食業の父と英国人ダンサーの母の間に生まれた。国立高等演劇学校で演技を学び、1948年にデビュー。ルイ・マル監督の「死刑台のエレベーター」(58年)や「恋人たち」(同年)、フランソワ・トリュフォー監督「突然炎のごとく」(62年)などに出演して新しい女性像を提示し、“ヌーベルバーグ”(新しい波)の時代を彩った。

 1960年に「雨のしのび逢(あ)い」で、カンヌ国際映画祭女優賞を受賞したほか、内外で多くの映画賞を受賞。晩年までリュック・ベッソン監督の「ニキータ」(90年)などの作品に出演。また、映画祭の審査員としても活躍した。2013年には日本で「クロワッサンで朝食を」が公開された。



◆フランスの大女優、ジャンヌ・モロー(Jeanne Moreau)さんが死去した。89歳だった。代理人が31日、発表した。
 当局関係者によると同日朝、パリ(Paris)の自宅で、亡くなった状態で発見された。
 モローさんは1928年パリ生まれ。父親はフランス人のレストラン経営者、母親は英国出身のコーラスガールだった。父親の希望に逆らい、フランス国立高等演劇学校へ18歳で入学。その2年後、国立劇団コメディ・フランセーズ(Comedie Francaise)に加わった。

 故フランソワ・トリュフォー(Francois Truffaut)監督の『突然炎のごとく(Jules et Jim)』や、ルイ・マル(Louis Malle)監督の『死刑台のエレベーター(Lift to the Scaffold)』、ジョセフ・ロージー(Joseph Losey)監督の『エヴァの匂い(Eva)』など、批評家の絶賛を浴びた20世紀映画に数多く出演。1960年代の自由を体現する女優として輝き、ハスキーな声とはっとする美しさで観客たちをとりこにした。
 1992年には『海を渡るジャンヌ(The Old Lady Who Walked in the Sea)』で、フランスのアカデミー賞(Academy Awards)に当たるセザール(Cesar)賞で最優秀女優賞を受賞。80代になっても現役を貫いていた。

 米国のオーソン・ウェルズ(Orson Welles)監督に「世界最高の女優」と言わしめたモローさんはまた、フェミニストの象徴でもあった。映画界が女性の問題について徐々に意識し始めた時期に、解放された女性の草分け的存在となった。たばこをひっきりなしに吸っていたことを思い出させるしゃがれ声で「肉体的に美しいということは不名誉なことだ」と発言したこともある。

 エマニュエル・マクロン(Emmanuel Macron)仏大統領は追悼の意を表し、モローさんは「映画を体現した」と述べ、「既成秩序に常に反抗する」自由な精神の持ち主だったと語った。

 ウェルズ監督の『オーソン・ウェルズのフォルスタッフ(Chimes at Midnight)』、ミケランジェロ・アントニオーニ(Michelangelo Antonioni)監督の『夜(La Notte)』、ルイス・ブニュエル(Luis Bunuel)監督の『小間使の日記(Diary of a Chambermaid)』など、偉大な監督たちの作品に次々と出演することになったのも、その生き生きとした反抗精神ゆえだった。

 また、ジャン・ジュネ(Jean Genet)やマルグリット・デュラス(Marguerite Duras)といった作家の小説が原作の挑戦的な映画にも好んで出演した。

 優雅に年齢を重ねると、ロージー監督の『パリの灯は遠く(Mr. Klein)』やエリア・カザン(Elia Kazan)監督の『ラスト・タイクーン(The Last Tycoon)』などで準主役級の役を務めた他、米映画監督のウィリアム・フリードキン(William Friedkin)氏との短い再婚を経て『ジャンヌ・モローの思春期(L'Adolescente)』など自らメガホンも取った。

 世界各地の映画賞を受賞した他、フランスの映画製作者に助成金を付与する国の委員会のトップや、1995年のカンヌ国際映画祭(Cannes Film Festival)の審査員を務めるなど、映画界全体にも貢献した。

 60年を超えるキャリアで出演作は130作品以上。生涯で2回結婚し、脚本家で俳優だった最初の夫、故ジャンルイ・リシャール(Jean-Louis Richard)氏との間に息子のジェロームさんがいる。

★ジャンヌ・モロー(Jeanne Moreau, 1928年1月23日 - 2017年7月31日)は、フランスの女優・歌手。
経歴
パリ生まれ。父はフランス人のレストラン経営者、母はイギリス人(イングランド・ランカシャー州出身)のキャバレー・ダンサーで、母の影響を受けて育つ。
パリのフランス国立高等演劇学校 (コンセルヴァトワール)で演技を学び、1947年に演劇デビュー。劇団コメディ・フランセーズで頭角を現す。映画にも出演し始め、ルイ・マルの『死刑台のエレベーター』やフランソワ・トリュフォーの『突然炎のごとく』など、ヌーヴェルヴァーグの監督達の作品で国際的な名声を得る。

ミケランジェロ・アントニオーニ『夜』、ジョゼフ・ロージー『エヴァの匂い』、オーソン・ウェルズ『審判』、ルイス・ブニュエル『小間使いの日記』など、著名な映画監督と組み、ウェルズはモローを「世界で最も偉大な女優」と評した。

マルグリット・デュラス原作の『雨のしのび逢い』でカンヌ国際映画祭主演女優賞を授賞。同じくデュラス原作の『マドモアゼル』では主演を、『愛人/ラマン』ではナレーションを務めている。『デュラス 愛の最終章』では生前親交があったデュラス本人を演じた。

映画界への多大な貢献を評価され、1992年にはヴェネツィア国際映画祭で栄誉金獅子賞を、1997年にはヨーロッパ映画賞で生涯貢献賞を、2000年にはベルリン国際映画祭で金熊名誉賞を、2003年にはカンヌ国際映画祭でパルム・ドール名誉賞を、1995年と2008年にはセザール賞で名誉賞を授与された。

1949年に俳優のジャン=ルイ・リシャールと結婚し、一男ジェロームをもうけるも後に離婚。
1977年に映画監督のウィリアム・フリードキンと再婚したが、1979年に離婚している。
2017年7月31日午前、パリ8区の自宅アパートメント内で倒れた状態で亡くなっているのを家政婦が発見した。その後、代理人とパリ8区長によって死去が発表された。調査結果によれば老衰。89歳没。同日、エマニュエル・マクロン大統領は声明を出し、「映画を体現した」モローに敬意を表した

出生地 パリ
国籍  フランス
配偶者
ジャン=ルイ・リシャール(1949 - 1951)
Teodoro Rubanis(1966)
ウィリアム・フリードキン(1977 - 1979)

 
受賞
カンヌ国際映画祭

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女優賞
1960年『雨のしのび逢い』
パルム・ドール名誉賞
2003年 長年の功績に対して
ベルリン国際映画祭
金熊名誉賞
2000年 長年の功績に対して
ヨーロッパ映画賞
生涯貢献賞
1997年 長年の功績に対して
英国アカデミー賞
女優賞
1965年『ビバ!マリア』
セザール賞
女優賞
1992年『La Vieille qui marchait dans la mer』
posted by 松本 美人 at 15:39| Comment(0) | 死去・忌日 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする